どうして大人は「こどもらしさ」を求めるのか
高校時代の放送部での活動で何度も言われた
「高校生らしさを出せ」
本物の高校生が作った作品に「高校生らしさが足りない」とは何事か。
未だに腑に落ちないので、考え直してみました。
1.作品に高校生らしさを求める審査員
私は放送部でドキュメンタリー番組を作っていましたが
大会の要項には「高校生らしい表現が望ましい」としっかり明記されてました。
そもそも高校生しか参加しない大会に、これいかに?
高校生が頭を捻って作った良くできた作品が「高校生らしさに欠ける」と点数を引かれるんですよ。
表現として最高でも「高校生らしく」なければ評価されない
そんな摩訶不思議な世界。
ぶっちゃけると「高校生らしさ」の演出をとるか
表現としてのクオリティのどちらをとるか
もしくはそのバランスに一番頭を悩ませていました。
2.勝つために高校生らしさを作る
どんなに表現として優れていても、審査員が「良し」としない限り表彰台には登れません。
審査員ウケしければ勝てない
それが放送部の大会の一面です。
こんなこともありました。
編集専門の先輩が編集を仕上げて
それを顧問の先生がチェックしたときのことです。
顧問
「これだと上手すぎるから、少しずつ間を崩して下手にして頑張って編集した感を出そう」
えーーーーーーーーー!!!!!
本来編集とは
作品のテーマや伝えたいことを正しく伝えるために
なんの引っ掛かりもなく「上手い・下手」を意識すらされないのが最高なんです。
でも「編集」の上手い下手までが採点基準だから
どこかでひっかかりがないといけない。
つまり「高校生が精一杯頑張って編集しましたよ~」と
細々としたところでアピールする必要があるんです。
じゃないと「テーマは良かったけど、編集はどんなだったっけ?まあ60点でいいか」
となるわけです。
だから、「わざと頑張ってる感」を出す。
ほんと、あざとい。
でも勝つためなら審査員のお望みどおりの
「部活動を頑張るキラキラ青春な高校生☆」
になるしかないんです。
(もちろんそこに反発しながらも評価される作品もあります)
この「わざと下手に編集し直した」作品は
講評(評価のポイントを審査員が手書きで書く紙)に
編集に努力の跡が見られて、とても好感が持てました!
と書かれていました。
オイオイ、いいのかよそれで。
3.評価を気にせず「高校生らしさ」をぶっ壊したら
元々私の部は、高校生らしくない重たいテーマに挑むことで有名でした。
そしたら毎回書かれるんですよ、講評に。
「高校生がどうしてこのテーマを?」
「番組づくりの基礎はできているので、もっと自由な高校生らしい作品が見たいです」
「高校生がわざわざ扱うテーマではありません」
「クオリティは高いのですが、高校生が作ったとすると違和感があります」
そりゃあ、高校生が出場する大会ですよ。
高校生らしいフレッシュな戦いが見たいのはわかります。
でも甲子園で高校球児が150キロの球を投げたら
「高校生らしくない」って悪く評価するの??
高校生が重たいテーマに等身大で向き合って
もっと作りやすいテーマもある中で、それでも必死にチャレンジしていく姿は
「高校生らしくない」んですか?
講評に「高校生らしくない」と書かれるたびに
だからどうした!これが私の高校生らしさだ!文句あんのか!?
と心で叫んでいました。
大人の思う高校生らしさと
高校生だからこそ向き合うべきテーマはずれているのかもしれない。
ただ、最も優れた作品とは
「高校生らしい、高校生らしくない」
なんて論点で片付けられない圧倒的なクオリティであるのは間違いありません。
高校生らしくない、と書かれるのが悔しかったのは
その程度のレベルでしか無いと言われたも同然だから、というのは確かです。
でも、下手なのを「高校生らしいですね!」って評価する審査員はどうかと思う。
まとめ
高校時代の恨み節が炸裂してしまいました笑
でもほんと「子供らしさ」「若者らしさ」ってなんなんですかね?
私ももうちょっと歳を取ったら学生の作品に「学生らしくない」とかイチャモンつけるおばさんになるのかしら。
それだけは嫌だな、と思います。